臍(ほぞ)を狙え

Dame ramen y dime tonto.

日記#37 まだコロンビアで消耗してるの? 2020/08/11

8月1週目でピークアウトするっていう見方もあったみたいですが、勢い衰えず。数字は鯉の滝登り。

僕の記憶が正しければ、3月ごろには「4月がピークだよ」とみんな言っていた。そして4月には「5月がピークだよ」と。5月にも「ここを乗り切れば大丈夫だよ」と言ってたし、6月には「流石に7月までには収まってるでしょ」と言っていた。

 

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楽観視は未来の自分を苦しめることになるはわかっているので、なんの期待もしないように努めてはいるが、心のどこか片隅では「流石に今年中にはロックダウン解除されるんじゃないかな」と思ってる節がある。

80年後に今と同じベッドに座って「あの時は2020年中にはどうにかなる、と思っていました。」とか日記を書いていたら面白い。

いや、全然面白くない。

僕は汚染がひどい市のさらに感染が集中している地域に住んでるので、以前は週1でしていた散歩もしばらくしていない。

さっき夜食に凍ったパンをスライスしたがめっちゃ硬かった。あれが間違いなく今月最大の運動だったな。しかもその後チーズを探してキッチンと食料庫を2往復したし。今日はぐっすり眠れそうだぜえぇぇ

 

・・・

最近映画を見てる。ここ5ヶ月くらい。

じゃあそれまで映画を見てなかったかというと、見てなかったのである。

僕は映画やドラマをほとんど見ないで育った。我が家のテレビは別室にあって、滅多に電源を繋がれないただのでかい箱だったので。

別に見たいとは対して思わなかった。普通に新聞紙を堅く丸めて弟妹をぶっ叩いてる方が楽しかったからね。(愛情ですよ!愛情!!!)

てなわけで、最近それを取り返すように映画を見ている。

以下はど素人の僕が自力で考え出した戯言。めっちゃ的外れかもしれないけど、一応書き残しておこう。あとから笑えるかもしれないし。

映画を見るときに視点を意識すると面白いことに気がついた。視点というのはつまり、視聴者はどこまで知ることを許されているか、ということとほぼ同意だ。

視聴者はそれが現実でなく映画であるということを知っている点において、神である。だから映画の中で人が殺されても「おっ面白い演出だね〜」とか「特殊メイク凝ってるね〜」とか言ってヘラヘラしてられる。

まず映画の仕事はこの神を映画中の誰かの視点まで持ってくることではないか。そしてそれは主人公であることが多い。

「(今ここでプリンを食べたらカズマに怒られるでおじゃる...)電ボー!プリンなんぞ食べとうない。このプリン持ってってたも〜」

視点が主人公にあるので、実際のセリフだけでなく(括弧内)の気持ちも視聴者に共有される。こうなると視聴者に演出やらメイクやらの話をする余裕はなくなる。しかし我々は普通こんなことを意識しない。「あ、今僕は主人公の目線に置かれているな」とか考える人は少ないし、いたらメタ読みクソザコ野郎ということで軽蔑される。

だから視聴者は、自分はずっと神視点で見ていると思い込んでいるが、実際には主人公の高さまで落とされているのだ。このことに視聴者が気付く瞬間、それが映画の山場なのではないか。「お前は神ではないぞ。こんなことも知らないし、あんなことも知らないだろう。そいつを今から教えてやろう」と映画が視聴者に語る瞬間。

「何言ってるの?」

「え?」

「破綻してない?論理。」

「いや、ちょっと待ってくれ。ここからなんだ、これから実在論の話までうまく繋げるから、もうちょっと話させてくれ。」

「もう、無理だよ。残念だったね。」

「ううっ く゛や゛し゛い゛よ〜」

「悔しいよな。でも今日はもう寝よう。」

「うん。 ぐすん。 おやすみ。」

「ああ、おやすみ。」

パチっ

 

 

 

一体なんだったんだ...

2020年8月12日