臍(ほぞ)を狙え

Dame ramen y dime tonto.

日記#27 パエリアと犬とユカと死の話 2020/08/01

とりゃっ!!

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おりゃっ!!

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サフランが爆発するパエリア...

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急激に向上した画質...

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そして浮かび上がる「一眼レフ」の四文字...

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犬と飯しか被写体がない

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ユカ(キャッサバ)のフライ。間違いなく人類が到達しうる最高点。一度味わうと他の芋のフライでは満足できなくなる。非常に危険⚠️

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とりあえず被写体に近けりゃ近いほど良いという価値観でやってます。

 

・いやあ楽しかった。一眼レフカメラを発掘してきたので、嬉しくて嬉しくて。犬にうざがられながら一日中パシャパシャやってました。明日にはもう飽きてるかもな。

 

(注: 以下の内容は死に関する話題を含みます)

 

 

 

 

 

この老いきった犬を12時間眺め続けて、「長生きを願うこと」って実はめちゃめちゃ自分勝手で自己中心的なことなのではないかと思い始めた。

これまでは行儀よく座って文句を言わず餌を食べていたのに、最近になって餌をねだり吠えるようになった。死期が近いことは間違いないので、クッキーでも鶏肉でも沢山あげてやりたいのだが、我々はそれよりも彼女に長生きして欲しいので、その数を制限している。

 

しかし、死ぬということがどういうことかよく考えると、この段階でおやつをあげない理由は正直に言って全くない(気がする)

 

本人にとって・・死ぬこと、そして死んだ後の状態は、悲しかったり苦しかったりしない。もちろん後悔などの感情も存在し得ない。反対に死を待ちつつ生きている状態は不安で辛く、苦しい。

残された人にとって・・悲しさや後悔などの感情に苦しむ(そもそもこの苦しみこそが生きるということだが)

 

以上の超完全スーパーロジカル定理より、「長生きして欲しい」という願いは「(自分が)悲しみたくない」「(自分が)後悔したくない」という自己中心の感情であるように思えてくる。

 

もちろん人生なんて自分の感情以外大して重要ではないので、それが自然であることは確かだが、それを自覚せずに、「あなたのために長生きして欲しい」「あなたが長生きすることはあなたの幸せである」と人に要求するのはどうだろう。

 

今までは彼女におやつをあげる時、

 

「おやつは一つだけ。あんたも長生きしたいでしょ!」

 

ってな感じで喋りかけていたが、正確には以下のようにすべきである。

 

「おやつは一つだけ。なぜなら僕はあなたが死ぬことで苦しむだろうし、その苦しみを受ける準備ができていません。もちろんその時はいずれやってきますが、それまでひとまず先延ばしにさせてください。そしてあなたは長く生きることでその分苦しみと死への恐怖を味わうことになりますが、結局のところ、あなたの意見や感情は僕にとってあまり重要でなく、大切なのは”僕が苦しみたくない”ということです。確かに、おやつが二つになればあなたはそれだけ幸せになります。しかしそれは僕の幸せではありません。非常に自分勝手ではありますが、それが人ってもんなので許してください。ということでおやつは一つだけです。」

 

以上、屁理屈乃助がお送りしました☆

 

2020年8月1日 夏休みだぁぁぁぁぁぁぁぁ